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木と森のコラム(話:会長 伊藤博)

木を使うことで森が守られる

 かつて、自然環境を守るためには木を伐らない、そのためには割り箸も使うなという森林の実態を知らない「識者」の誤った「常識」が横行していました。当社では20年程前から写真のようなトラックの文字書きで反論を試みてきました。今、環境問題の解決のカギとなるのは「持続可能な森林の管理・経営」と「自然環境にも十分配慮した人間の暮らし方」だと云われています。木を切って、それを使う、その代金が山に還流され、森林の手入れも新たな植林もすすむ、このサイクルが今必要なのではないでしょうか・・・。
  日本国土の約70%は森林です。日本人は森を大切にし、世界に誇る木の文化を育んできました。しかし、住宅の様式の変化や「市場原理」の進行とともに、木材需要、特に国産材の市場は小さくなり、木造住宅にたずさわる職人さんも減っています。
 当社は「木を商う」ことを通して、そこに住む家族の健康を守り、日本の木の文化の継承、そして、持続可能な森林環境の保全にも役に立っていきたいと考えています。

山の事情−1 東洋の魔女が生まれ、松茸は消えた

 一見、脈略のなさそうなバレーボールと松茸の話で、山の事情に目を向ける一助にしたい。
 およそ半世紀も前、農山村から都会に、工場に人が集められた。♪ああ上野駅や♪別れの一本杉はふるさとを離れ都会に暮らす人々の哀切を奏でるこの時代の歌であった。東京都の居住人口が1000万人の大台を超えたのは1962年頃である。これに先駆けて隆盛産業のひとつに繊維・紡績があり、これら近代的な大工場へは中学・高校を卒業した若い労働力が多く集められた。男子は野球、女子はバレーボールの時代である。東京オリンピック(1964年)での女子バレーボールの優勝はこうした経済社会の変化・くらし方の構造変化という背景を抜きでは考えられない。
 この頃、炭・薪から石化燃料へのエネルギー革命は、人々の暮らしと自然環境に革命的な影響力を持ち込むことになる。経済成長も豊な暮らしも山での生活を難しくした。奥多摩や奥武蔵の山間部に廃屋が目立つようになったのは、昭和40年代に入った頃からであった。
 さて、松茸のふるさとはどうなったのか。国産松茸の生産量は1961年を境に激減した。なぜか。
 元来、痩せ地に適した松。その赤松の根に寄生して育つ松茸に異変が起きた。山から人が去り、燃料も肥料も山の幸も置き去りにされた。永い間、日本人に親しまれてきた松やまの景観は目立たない根もとから変化した。
 村人が山と上手に付き合っていた頃、松茸はその地に根ついた、何でもない山の幸、山の神様の授かり物であった。大正時代の記録によれば、松茸は椎茸の10分の1くらいの値段だったという。
 また、〈松の赤枯れ病〉が1970年頃から全国に広がった。松の葉を赤く染めて枯れる無残な姿に多くの人が心を痛めたことだろう。この病気も松茸同様、林床の富栄養化が原因とされている。更に、近頃の建築現場で、松の梁丸太(屋根の重量を支える、あの力強く曲がった丸太)が使われていないことにお気づきだろうか。匠の技が使いこなしてきた不定型の松の曲がりも機械化には向かない。建築のプレカット化は松の丸太も、大工さんの腕も不用のものにしていった。
 所得倍増に気を取られている間に松茸が消え、早く、安く、便利を喜んでいる間に、ふるさとの自然も伝統や日本の文化も、従って日本人の心も押し流されてきた事こそ問題視しなければならない。
 「考えられない事件」の連続で世人は教育が問題だといい、心の問題の解決を法律や制度に求めようとしている。くらしや生き方を変えない目先の対応策だけでは無理だという山の神様の声が聞こえてきそうだ。